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句を越えること三回、三十三年間の撰句は約三百万と推定される。
?前句冠題は一年分が前もって出題されていた。
?冠句は安永から殆どなくなり、句題の合印は安永五年鶴印からこれを省き、天明八年からは前句も省かれた。
?入花料は一句十二文(明和七年)乃至十六文(安永四年)くらいで、他の点者よりは安価であった。
?入選率は定会では二・八%前後で他の点者より高率である。
?他の点者より高率の景物が番勝句に与えられ、勝句刷に記載されない撰外佳作にも出された。(以上、同書「覚書」参照)などなどのことが判明する。
こうして、盛大に行われた、川柳評の前句付興行も、次項で説明するように、『誹風柳多留」の編纂・刊行によって、自らの内に矛盾を生じ、やがて衰退への道をたどるのである。俳風柳多留の刊行
川柳評前句付万句合の興行は順調に推移していたが、明和二年に至って画期的な事件が起きた。川柳評万句合の勝句刷から、前句をとり一句でもわかりやすい句を集めて、『誹風柳多留』初篇という句集が編纂・発行されたのである。編者は呉陵軒町有(となっているが、有力であったとはいえ、一投句者が川柳評の勝句を勝手に編纂することが出来ようはずもなく、点者川柳の承認、強い指導があったであろうことが推測される)、版元は星運堂花屋久次郎であった。
今、柳多留初編の序文を見ると、
さみだれのつれづれに、あそこの隅ここの棚より、ふるとしの前句附のすりものをさがし出し、机のうへに詠る折ふし、書肆何某来りて此儘に反古になさんも本意なしといへるにまかせ、一句にて句意のわかり安さを挙げて一帖となしぬ、なかんづく当世誹風の余情をむすべる秀吟等あれば、いもせ川柳樽と題す、于時明和二酉仲夏浅草の麓呉陵軒町有り述。
と記されている。
「一句にて句意のわかり安さ」というのは、前句がなくても理解・鑑賞できる句という意味である。つまり、柳多留はこれまでの伝統である前句付の付合わせを楽しむ文芸から、その前句を取り去って独詠吟の方向に一歩踏み出したのであった。
この柳多留の編纂が、江戸座俳諸の高点付句集『俳諸式玉川』の影響を多大に受けているのは、いうまでもない。
『誹風柳多留』は、明和二年に初篇を出した後、二年後の四年に二篇、以後殆ど毎年刊行が続けられたが、それは寛政三年の二四篇まで、川柳評万句合の勝句を抜粋したもの

 

 

 

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